こんにちは!だざいです。
大学2年生のときに自殺未遂をして、
それからビジネスで人生を逆転。
大学卒業後には独立。
ライティングをメイン事業として回しながら、
さまざまな事業運営をしています。
さて、今回は僕の人生を大きく狂わせた
ある事件についてお話ししようかなと。
とはいえ、タイトルで
内容はバレていると思います。
東日本大震災についてです。
僕は生まれも育ちも宮城県仙台市です。
いまでも変わらず、
宮城県に住んでいます。
東日本大震災による被害は、
モロに受けましたね。
あの頃、僕は小学6年生だったので
何も意識せずに生活していたのですが、
いま思い出してみると、
勉強になることがたくさんありました。
家族の愛とか、
生き抜く力とか。
2011年3月11日という、
ショッキングな出来事を扱った記事ですので
読みたくない人はブラウザバックしてください。
記事のなかには、
震災当日の様子を連想させるような
表現が含まれます。
ここから先は、ご注意してお読みください。
──2011年3月11日
──2011年3月11日、
僕は小学6年生でした。
小学校2年生までは自己主張のない、
ずっと絵を描いている不思議な子。
3年生からは、学級委員長などをする活発な子。
勉強もそこそこ得意で、
不自由のない生活を送っていました。
そして、卒業後には
地元の中学校に進学予定。
どんな部活に入ろうかな。
先輩は怖くないかな。
荒れていると聞いたけど大丈夫かな。
たくさんの不安と、期待を胸に
卒業を待ち続ける日々でした。
ワクワクの毎日を送り続けられる、はずでした。
2011年3月11日、あの日に僕が何をしていたか
その光景を僕は鮮明に覚えています。
最後の体育の授業中でした。
卒業式を24日に控えているということで、
体育館には僕たちが毎日歌の練習をする
銀色のひな壇が並べられていました。
「最後の体育だから、今日は自由時間です!」
担当の先生がそういうもんだから、
僕たちは友達と一緒になって
何をしようか、とわちゃわちゃ。
そのころは野球とサッカーしか知りませんでしたが、
友達がバスケをしようというので、
体育倉庫まで行ってボールを探しに行きました。
おそらくその時点で、
時刻は14時45分。
ボールを見つける。14時45分30秒。
体育館倉庫を出る。14時45分50秒。
先生がキョロキョロし始める。14時45分58秒。
14時46分、地震が来る。
みんな!体育館の中心に集まって!!!!!!!!
銀色のひな壇に座って、
のほほんと児童を眺めていた先生が
急に大きな声を出し始めた。
これまで聞いたことのないレベルで、
必死な先生の叫び声のようなもの。
ガゴォンッ!!!!
人生で初めて、地面から突き上げられました。
ガサガサガサガサ・・・。
その後は、まるで巨人が
体育館を揺らしているのではないかと
リアルに思ってしまうほどの横揺れ。
ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛
泣き出す同級生女子。
やんちゃしてた男子も、
怖がった顔をしている。
ボロボロの体育館の屋根から、
灰のようなものが落ちてくる、
入学当初からずっと挟まっていた、
天井のバレーボールが落ちてくる。
ぶら下がっているライトも、
いつ落ちてくるかわからない。
屋根が崩れたっておかしくない。
実は、誰にも言っていないけど、
あの時点で死を覚悟していました。
そのときから、僕はどこかで
人生に諦めを感じていたのかな。
・・・いま調べたところ、揺れの時間は
3分間しか続いていなかったらしい。
あのときは、それが15分くらいに感じられました。
同級生が泣き叫び、
先生が大声で指示を出す。
体育館は音を立てて揺れ続け、
天井からは物が落ち続ける。
地獄の時間は、長い。
地獄が終わってもなお、
ライトが揺れ続けている。
電気はいつの間にか消えていたな。
校庭に行って!と、先生からの指示。
避難訓練になると、みんなふざけるのに、
いざリアルでこんなことが起きると
大人しく指示を聞くものだなあ、と。
重厚感のある、灰色の空。
冷たい空気と、絶望の顔。
砂遊びをする人なんかいない。
そんな余裕がある人なんていない。
でも大人はすごい、みんな冷静だった。
(あの頃はそう見えただけかもしれない)
僕の両親は共働きで、父は遠くで仕事をしているし、
母は幼稚園の先生をしていました。
だから、僕の迎えは誰も来れなかった。
ということで、家族ぐるみで仲のいい
友達の両親に引き取られることに。
友達の両親に引き連れられて、
1日を過ごし、
両親と再会できたのは、夜12時すぎ。
家がもうぐちゃぐちゃだったので、
母は軽自動車のなかで毛布をかぶっていました。
あんなに弱った母を見たのは
あのときが初めてだったかな。
父は、車で時間をかけて帰ってきました。
そういえば、この日は雪が降っていて、
もう、世界の終わりのようだった。
世紀末的な、退廃的な、絶望的な世界だった。
雪が降り、寒く、地面は割れ、
近所のスーパーには人だかりが。
ラジオから流れる音を聞けば、
何か地震よりも大変なことが
起こっているようだった。
殺伐とした、絶望に包まれた
生活が始まるのかと思っていました──。
それからの毎日は、愛に溢れていた
僕たちが津波の被害を知ったのは、
少しあとの話でした。
テレビはもちろん見れないし、
スマホなんて出たばかり。
情報が全然入ってきませんでしたね。
水道とガスは幸い使えたけど、
電気は使えなかった。
これだけを聞いたら、
ほとんどの人が「大変だったね」と
僕の過去を憐れんでくれるかもしれない。
──でも、それからの毎日は愛に溢れていました。
世界が終わり、絶望が待っていると思ったけど、
家族の愛に照らされた毎日が始まったのです。
両親は、サバイバル生活だね!と言って、
明るく振る舞ってくれた。
本当は、つらかったはずなのに。
でも、両親がネガティブなこの状況を
ポジティブに捉える術を知ってくれたから
僕はまた不自由なく過ごせた。
もちろん、1日おにぎり1つとかで生活してたけどね。
寒い日が続いていたから、
よく灯油が足りなくなる。
ガソリンを使うのももったいないから、
歩いてガソリンスタンドに並ぶ。
そして、2時間並ぶ。
あの日は、パラパラと雪が降っていた。
1人あたり、ポリタンク1つまでだったから、
父と母と僕の3人バラバラで並ぶ。
ポリタンクに入ったガソリンを持って、
歩いて帰るのは大変だったなあ。
父に「持とうか?」と言われたけど、
どうしても自分で持ちたかった。
雪降るなか、父と母と3人で
ポリタンクを運ぶ。
不幸せな光景が浮かびましたか?
僕は、幸せでした。
ただ歩くだけでは退屈だからと、
しりとりを繰り広げたり、
ときには休憩をしたりして。
僕は幸せでした。
僕がそんな状況でも幸せだったのは、
確実に両親のおかげでした。
どうにかなるよって、
大丈夫だよって。
すごく心強くて、安心した。
電気がつかなくなって、
冷蔵庫のお肉と魚がダメになるからって
闇鍋パーティーを開催したりもした。
めっちゃまずかった。
けど、爆笑しながら食べた。
どれだけ苦しい状況に置かれていても、
両親が世界を楽しく見れるフィルターを
僕の目につけてくれたいた。
世界を楽しく見させてくれた。
あれは、愛だった。
俺は、枝野官房長官に怒りを感じたよ
大学を卒業して、ライターとして独立して、
経済的にも問題なく生きられるようになった。
そんなある日、父と酒を飲んだ。
僕も父もよく酒を飲むほうで、
一緒に飲むのは大体ビール。
2人だけで、500mlのビールが
1日で10本はなくなる。
で、酔っ払ってくると
いつも思い出話が始まる。
この日は、震災のことだった。
──俺は、枝野官房長官に怒りを感じたよ
父がこんなことを言うもんだから、
どういうことか尋ねてみた。
──いや、枝野官房長官っていたじゃん?
あの、原発関連の記者会見とかをしてたさ。
あの人が何にも問題がないっていうから、
一緒にガソリンを買いに行ったりしたんだよ!
でも、あの日、雪降ってたよな〜
あれに放射線物質が含まれていると考えると、
本当に申し訳なくてさ〜。
枝野さん、最初からこのこと
分からなかったのかよ〜って思ってさ〜。
なるほど。父は僕のことを
また心配してくれていたわけだ。
放射線物質が含まれていて、
僕の発癌リスクが高まることを
心配してくれているのだ。
「いや、なかなか幸せだったよ。あれ。」
普段はこんなに照れくさいことを言わないんだけど、
どうやら飲み過ぎたみたいで、こんなことを言った。
次の日の朝、少し恥ずかしかった。
でも、幸せだったよ、と伝えられた父は、
少し涙を浮かべているようだった。
母は、もう先に潰れて寝ている。
僕は、2人のものに生まれて、
愛情を受けて育ち、
生き抜く力を教わった。
2人の息子として生まれて、よかったと思う。
家族を支えてくれた、父の話
僕の父は、会社員ではない。
祖父と一緒に、自営業をやっている。
家業を継がなかったことが、
少し申し訳ない気がする。
まあ、そのことは置いておいて、
僕が伝えたいのは、
父がずっとそばにいてくれたこと。
自営業で働いている父は、
地震から数ヶ月間、家族と過ごしてくれた。
たまに仕事に行くこともあったが、
基本は一緒にいてくれた。
それが、どれだけ心強かったことか。
母が幼稚園から持ち帰ってきた仕事を、
家族3人でロウソクを囲んでやったことがある。
母が資料を確認して、
父がハンコを押して、
僕が最終確認をする。
あれも、幸せだったな。
この幸せは、父がそばにいてくれたからこそ
実現できたものだったと思う。
心強い存在がそばにいてくれるだけで、
どれだけ僕たちが救われたことか。
僕が最も尊敬する人物は、父だ。
父のようになりたい。
震災を通して、何かあったときに
大切な人のそばにいることの重要性を
身をもって体感した。
だから、いまこの職業についた。
パソコン1つでできる仕事。
大切な人のそばにいられる仕事。
実は、このブログの記事を書いている日の朝、
僕が住んでいる宮城県で地震がありました。
いつ、どんなときに災害が起こるか分からない。
僕たちの人生におけるハプニングは、
いつ起こるか分からない。
人生における大切な人が、
ハプニングの渦中にいるとき
そばにいられるだろうか。
そばにいられるようにしたい。
会社や組織を理由にして、
不安な気持ちでいっぱいの大切な人を
置いてけぼりにしたくない。
父のようになりたい。
こんな文章を書いていたら、
涙が出てきてしまいました。
この話はここで終わり。
もしかしたら、追記します。